郷土開発の歴史〜寛政のいわれ〜

  校歌にも歌われているように寛政中学校が開校した当時、周囲には工場が林立し、時を告げるサイレンの音が鳴り響き、製鉄所の溶鉱炉の燃える火が赤々と雲に映る、まさに、産業の中心地でした。このような寛政中学校の所在地近隣地区の発展の歴史について、埋立事業を中心にまとめてみました。
1 多摩川・鶴見川のデルタ地帯
2 埋立事業
3 開発と交通
@ 海岸電気軌道
A 鶴見臨港鉄道
B 国鉄鶴見線
4 行政区変遷
5 学校の創立
6 寛政のいわれ
1 多摩川・鶴見川のデルタ地帯
  鶴見、潮田地域は、大正の初め頃までは淋しい農漁村に過ぎなかった。多摩川と鶴見川の三角州にあたるこの地域には低湿地が多く、その海岸は、干潮時にははるか沖合まで露出する遠浅であったと思われる。多摩川は左岸に広がる武蔵野台地と川崎市の北西に連なる多摩丘陵にはさまれた低地に流れて、沖積平野を形成している。河口近くのデルタ地帯には、大島、中島、田島、川中島などの地名があり、形成されつつあったデルタ地帯の名残をとどめている。また、大師河原や南河原などは、氾濫源であった。

2 埋立事業
  多摩川と鶴見川のデルタ地帯はヨシの生い茂った低湿地で、ヨシキリやスズメが群れをなして平和な暮らしをしていた。
  浅野総一郎は、東洋汽船の用務で、明治29年に欧米諸国を訪れ、壮大な文明施設を見聞してまわった。そして、帰国するとともに、この地域の海浜開発を目指し率先して数度にわたり実地踏査をした。その結果、開発事業が成功するとの信念を強め、この海浜に一大工業用地を造成するための埋立事業を企画し、事業の実現をはかった。
  浅野セメント会社は工場新設の必要に迫られていたので、この計画を同社の重役会に提出して賛意をもとめたが、あまりにも膨大な計画のため賛成する人は少なかった。しかし、安田善兵衛は技師を伴い実地検分をした結果、その有望性を認め、事業の遂行を力説したので、評議一決して浅野総一郎、渋沢栄一(第一銀行頭取)、安田善次郎(安田財閥)の3名が中心となり、鶴見埋立組合の名で大正元年12月、県当局へ計画を出願した。
  鶴見埋立組合は県へ出願すると同時に、同組合を拡充強化して鶴見埋築株式会社を創立する準備を始めた。この発起人は上記の人々も含む浅野セメント会社の大株主たちで構成され、資本金350円はすべて発起人たちが引き受けることになった。
  大正元年10月1日付けの「中外商業新聞」によると当時、すでに鶴見埋築会社の創立準備は整っていた。一方、埋立予定地のうち80万坪は、浅野の名義で某氏所有の「同地先海面埋立権」を買収していたと報じられている。つまり出願以前に準備が相当進んでいたと思われる。この80万坪は田島村の大島、渡田両部落の地先を指すと思われる。そこは、明治42年に永島亀代司ほか十数名が既に埋立許可を得ていたからである。残る70万坪について、同記事は『関係村民等が其海面埋立により、生業を失うのみならず、該埋立地には浅野セメント工場移転す可(べ)しとの風説を聞き、極力反対したる為交渉容易に纒(まとま)ざりしも、大島神奈川県知事及び関係部落村長等の斡旋と、浅野氏一流の運動、遂に奏功して最近に至り関係村民との間に円満なる解決を見、既に調印を了したれば、愈々(いよいよ)その筋より埋立認可の指令を交付せらるるも余り遠からざる事なる可(べ)し』と報じている。
  県の許可は大正2年初めに下り、工事は8月に着手した。翌3年3月には鶴見埋築会社が正式に発足し、埋立組合から事業を引き継いだ。最初に田島村の大島地先約10万坪を盛土埋立し、そこに浅野セメントの新工場を勧説することになった。それは大正4年4月に着工したが、第一次大戦の影響で輸入機械の到着が遅れたり、建築材料の入手難にあったりしたため、完成までに2年を要し、6年7月にようやく操業を開始した。
  この地区に続いて、4年末に最西端の第七区、約7万坪の埋立が完成した。このうち、2万5千坪は旭硝子株式会社の工場敷地に決定した。同社は、大正4年初め頃から、京浜地方に工場を新設することを計画し、その敷地について川崎町へ打診したが、会社側が望むような船着き場をひかえた用地は川崎にはなかった。そこで町長の石井泰助は、町田村の菅沢から潮田にかけての鶴見川沿いの土地を選び、会社の同意を得て約10万坪を買収を斡旋した。ところが、河川法に抵触するため県当局の工事許可が得られず、改めて鶴見埋築会社に交渉して、上述の第七地区埋立地に敷地を決定したのである。
  以上の経過を見ても明らかなように、石井町長も川崎町という行政区に必ずしもとらわれず、隣接町村を含む広い地域にわたって工業化を推し進めることを考えるようになっていた。
  最西端の第七地区埋立の竣工に続いて、大正5年7月には東隣の第六区埋立工事が開始されて、そこへは浅野造船所(後の日本鋼管鶴見造船所)の工場が建設されることになり、続いて大正6年6月発足した浅野合資会社製鉄所(翌年4月浅野製鉄所、後の日本鋼管鶴見製鉄所)が造船用鋼板製造工場を浅野造船所に隣接して設けることとし、翌7年9月、圧延機械設備を整えた工場が完成して操業を開始した。
  鶴見埋築会社は埋立事業と合わせて、発送電事業をも行った。大正2年、浅野は神奈川県足柄上郡神縄村落合(酒匂川上流)に水利権を獲得し、鶴見埋築会社発足と同時に、それを同社の経営に移した。同社は直ちに発電所建設工事に着手し、大正6年春、第一期工事を完成した。出力は5千5百キロワットで、これを川崎方面の臨海埋立地帯へ送電したのである。この電力供給によって諸工場が便宜を得たことはいうまでもないが、同時に埋立工事においても浚渫船の運転に電力が使用できるようになり、効率を高めるうえに大きく寄与した。 
埋めたて図
埋 立 地 名 工    期
 着  工 竣工
末 広 町 1 大正2年9月 大正 5年 5月
川崎市南渡田 大正 9年 5月
末 広 町 2 大正11年 3月
安 善 町 1 大正11年10月
安 善 町 2 大正11年10月
川崎市白石町 大正15年 3月
川崎市大川町 大正15年 3月
川崎市扇 町 昭和 2年11月
川崎市竹之下 昭和 3年 1月
10 砂 防 堤 844m
11 防 波 堤 3,589m
川崎市浅野町 大正2年9月 大正 4年 1月
川崎市南渡田町 大正14年   大正15年 1月


3 開発と交通

  @海岸電気軌道
  臨海地帯に工場が増えるにしたがって、そこへ往復する交通機関の整備が重要な課題になった。国鉄の京浜線は大正3年末に電車運転を開始し、京浜電鉄とともに通勤者に便宜を与えていたが、臨海地帯との連絡はなお不十分であった。京浜電鉄は、すでに明治43年に大森から羽田を経て鶴見に至る迂回線の敷設を企画したが、採算の見込みが立たず、具体化の運びに至らなかった。
  しかし、第一次大戦中、臨海地帯における工場建設が盛んになると、同社は改めてこの地区に着目した。そこで、大正5年12月、同社重役の安田善三郎(善次郎の養嗣子)、青木正太郎ら9名が発起人となり、海岸軌道株式会社設立に着手すると共に、京浜電鉄の鶴見総持寺停留所付近から町田村(後の潮田町)及び田島村の海岸沿いを通って大師停留所に至る5.4マイル(8.7キロメートル)の軌道敷設免許を、神奈川県経由で政府に出願した。その願書の一節には『神奈川県橘樹郡町田、田島、大師河原諸村における海岸方面は近来多数の諸工場新設させられ、したがって戸数日に増加し、将来大いに開発を見るべく、かつ全沿岸一帯は天然の勝景に富み、陸には礦泉湧き、海水清澄、遊覧地として、また京浜間の一名勝たるべきは一般の認むる所に御座候』とある。
  大正8年12月、政府、海岸軌道の敷設計画免許。戦後、恐慌が起こり計画の実現が遅れる。大正9年11月、正式に発足。工事に着手したのは関東大震災を経た後の13年8月であり、翌14年10月にようやく竣工し、本社線と連絡、運転営業を開始した。昭和5年3月1日、鶴見臨海鉄道へ吸収合併された。

  A鶴見臨臨港鉄道
  大正13年初めには東京湾埋立と、それまでに同社の埋立地に進出していた諸会社の首脳、浅野総一郎、白石元治郎、岩原謙三(芝浦製作所社長)、岡和、渡辺嘉一、及び正田貞一郎(日清製粉社長)の7名が発起人になって、鶴見臨港鉄道株式会社を起こすことになった。省線は当時、すでに川崎駅から田島町内の浜川崎駅への貨物支線を開設していたが、これに接続して埋立地を経由し、鶴見駅に至る新線の開設を企画したのである。この計画が生まれた理由について、同社の第一回営業報告書は次のように説明している。
神奈川県橘樹郡鶴見在、潮田町、田島町地先、東京湾埋立株式会社埋立地は、京浜間における理想的工業地にして横浜港に隣接し、防波堤及び錨地、克(よ)く壱万トン級の船舶を容(い)るるの設備を有し、海運の利を以(も)って大正四年以来、旭硝子(株)、(株)浅野造船所、(株)芝浦製作所、日本石油(株)、三井物産(株)、ライジングサン石油(株)、及び日本製粉等相踵(あいつ)いで大工場を建設し、近時の発展著しく、将来、本邦随一の工場地帯たるべきは何人も疑わざる処なり。然れども未だ陸上交通運輸の便を欠き、不便少尠(すくなからず)、鉄道敷設は焦眉の急を告ぐるに到りたるを以って…』文中、芝浦製作所以下の諸工場は、震災直前、または直後にこの埋立地へ進出することになったのであり、当時なお、工場建設途中にあったものや敷地を決定しただけで着工に至らないものも含まれている。
  大正13年2月11日、第一期計画の敷設免許を政府へ申請した。それは「浜川崎付近から潮田町、末広町一丁目、弁天橋に至る線路と、その途中で埋立地第四区2号地、及び安善町二丁目へ通じる支線を設ける」という計画であった。
  大正14年下半期から線路敷設工事入り、翌15年3月に支線を除き竣工、末広町には弁天橋駅が設置され、貨物輸送を開始した。
  昭和3年5月、複線化の工事開始。昭和3年8月、浜川崎と扇町を結ぶ路線が開通した。この線の免許は昭和2年3月に得たのだが、当時、扇町地区の埋立工事はまだ完了していなかった。しかし、埋立工事と平行してすでに、鉄道省火力発電所と三井物産埠頭の建設工事も進行していた。つまりここでは用地造成と工場、及び埠頭の建設と鉄道に敷設とが同時に行われていたわけである。
  第二期計画の弁天橋から鶴見駅に至る路線の工事は、やや遅れて、昭和3年3月末に着手、同5年10月28日に完成。

  B国鉄鶴見線
昭和18年7月1日に、鶴見臨港鉄道は国鉄に買収されて国鉄鶴見線となった。各駅からは貨物専用線として工場引き込み線が出ている。

4 行政区画の変遷
  潮田町は昔から潮田と称して丸子庄に属したとも伝えているが、小田原役帳には小机の内とある。地域は「東西二十八町余、南北十六町の広さを有し、家数二百四十七軒、この村は平地にして田多く畑少なし、土性は真土にして砂交れりと…」
  永禄の頃、大田新六郎家資の知行となった時に、村を二分して東西潮田としたが、村名の起こりも詳らかでない。
  明治22年4月1日、市町村制施行の際は町名田村となった(市場村、菅沢村、潮田村、矢向村、江ヶ崎村、小野新田)。町田村大字潮田となったが、大正11年4月1日、村内の発展をみるに至って町制をしき、町田村を潮田町と改め、更に大正14年4月1日に、鶴見村に合併して鶴見町大字潮田となり、更に昭和2年4月1日をもって鶴見町全部が横浜市へ編入された。そして、昭和16年4月1日に、安善町一丁目の一部と潮田の一部が合併して寛政町が誕生した。寛政中学校と日本鋼管技術研究所(昭和46年より)の間の道路が、海岸線の位置といわれている。

5 学校の創立
  昭和2年佐久間隆之介氏が個人経営として株式会社佐久間鋳工所を創設し、昭和30年まで現在の寛政中学校の場所を所有し製品や資材置き場として使用されていた。昭和30年6月15日、会社の敷地を市が買収し学校用地となる。昭和32年11月1日潮田中学校分校として開校。昭和37年5月1日、横浜市立寛政中学校として独立、開校した。  

6 寛政のいわれ
  川崎、鶴見の埋立地には、安善町(安田善次郎)、白石町、大川町、浅野町などのように、地域開発の功労者の氏名がそのまま地名になっている例が少なくない。
  寛政の地名は、江戸時代の寛政年間に、伊奈摂津守などが、新田の検地を行い、寛政耕地と名付けたのが地名の起こりではないかと言われている。