2 埋立事業
多摩川と鶴見川のデルタ地帯はヨシの生い茂った低湿地で、ヨシキリやスズメが群れをなして平和な暮らしをしていた。
浅野総一郎は、東洋汽船の用務で、明治29年に欧米諸国を訪れ、壮大な文明施設を見聞してまわった。そして、帰国するとともに、この地域の海浜開発を目指し率先して数度にわたり実地踏査をした。その結果、開発事業が成功するとの信念を強め、この海浜に一大工業用地を造成するための埋立事業を企画し、事業の実現をはかった。
浅野セメント会社は工場新設の必要に迫られていたので、この計画を同社の重役会に提出して賛意をもとめたが、あまりにも膨大な計画のため賛成する人は少なかった。しかし、安田善兵衛は技師を伴い実地検分をした結果、その有望性を認め、事業の遂行を力説したので、評議一決して浅野総一郎、渋沢栄一(第一銀行頭取)、安田善次郎(安田財閥)の3名が中心となり、鶴見埋立組合の名で大正元年12月、県当局へ計画を出願した。
鶴見埋立組合は県へ出願すると同時に、同組合を拡充強化して鶴見埋築株式会社を創立する準備を始めた。この発起人は上記の人々も含む浅野セメント会社の大株主たちで構成され、資本金350円はすべて発起人たちが引き受けることになった。
大正元年10月1日付けの「中外商業新聞」によると当時、すでに鶴見埋築会社の創立準備は整っていた。一方、埋立予定地のうち80万坪は、浅野の名義で某氏所有の「同地先海面埋立権」を買収していたと報じられている。つまり出願以前に準備が相当進んでいたと思われる。この80万坪は田島村の大島、渡田両部落の地先を指すと思われる。そこは、明治42年に永島亀代司ほか十数名が既に埋立許可を得ていたからである。残る70万坪について、同記事は『関係村民等が其海面埋立により、生業を失うのみならず、該埋立地には浅野セメント工場移転す可(べ)しとの風説を聞き、極力反対したる為交渉容易に纒(まとま)ざりしも、大島神奈川県知事及び関係部落村長等の斡旋と、浅野氏一流の運動、遂に奏功して最近に至り関係村民との間に円満なる解決を見、既に調印を了したれば、愈々(いよいよ)その筋より埋立認可の指令を交付せらるるも余り遠からざる事なる可(べ)し』と報じている。
県の許可は大正2年初めに下り、工事は8月に着手した。翌3年3月には鶴見埋築会社が正式に発足し、埋立組合から事業を引き継いだ。最初に田島村の大島地先約10万坪を盛土埋立し、そこに浅野セメントの新工場を勧説することになった。それは大正4年4月に着工したが、第一次大戦の影響で輸入機械の到着が遅れたり、建築材料の入手難にあったりしたため、完成までに2年を要し、6年7月にようやく操業を開始した。
この地区に続いて、4年末に最西端の第七区、約7万坪の埋立が完成した。このうち、2万5千坪は旭硝子株式会社の工場敷地に決定した。同社は、大正4年初め頃から、京浜地方に工場を新設することを計画し、その敷地について川崎町へ打診したが、会社側が望むような船着き場をひかえた用地は川崎にはなかった。そこで町長の石井泰助は、町田村の菅沢から潮田にかけての鶴見川沿いの土地を選び、会社の同意を得て約10万坪を買収を斡旋した。ところが、河川法に抵触するため県当局の工事許可が得られず、改めて鶴見埋築会社に交渉して、上述の第七地区埋立地に敷地を決定したのである。
以上の経過を見ても明らかなように、石井町長も川崎町という行政区に必ずしもとらわれず、隣接町村を含む広い地域にわたって工業化を推し進めることを考えるようになっていた。
最西端の第七地区埋立の竣工に続いて、大正5年7月には東隣の第六区埋立工事が開始されて、そこへは浅野造船所(後の日本鋼管鶴見造船所)の工場が建設されることになり、続いて大正6年6月発足した浅野合資会社製鉄所(翌年4月浅野製鉄所、後の日本鋼管鶴見製鉄所)が造船用鋼板製造工場を浅野造船所に隣接して設けることとし、翌7年9月、圧延機械設備を整えた工場が完成して操業を開始した。
鶴見埋築会社は埋立事業と合わせて、発送電事業をも行った。大正2年、浅野は神奈川県足柄上郡神縄村落合(酒匂川上流)に水利権を獲得し、鶴見埋築会社発足と同時に、それを同社の経営に移した。同社は直ちに発電所建設工事に着手し、大正6年春、第一期工事を完成した。出力は5千5百キロワットで、これを川崎方面の臨海埋立地帯へ送電したのである。この電力供給によって諸工場が便宜を得たことはいうまでもないが、同時に埋立工事においても浚渫船の運転に電力が使用できるようになり、効率を高めるうえに大きく寄与した。
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