
:::職員室より:::
今回は、小学部の先生のお話しを紹介します。
「ニシンがくるぞー!」小Cクラスと中村小3・4年生はこのかけ声の下、中村オリンピックで「ロックソーラン」を踊りました。ソーラン節といえばニシン漁。よい機会ですので故郷の利尻と我が家の歴史、そしてニシン漁のことを書かせてもらいます。
私の曾祖父(ひいおじいさん)は石川県の寒村の出で、農家の長男でしたが、農家を継ぐのがいやで結婚したばかりの嫁をおいて家を出たのが1890年(明治23年)。田畑の一部を売って旅費とし、流れ流れて利尻へたどり着いたのが1894年(明治27年)でした。なぜ利尻だったのかよくわかりませんが当時はニシン漁でにぎわっていました。ニシン漁に来る出稼ぎの人たちをヤン衆といいますが曾祖父もその一人だったのでしょう。この当時はこのようにして全国から利尻島にやってきて居着いた人がたくさんいます。私の母の家系は鳥取県と青森県の出身、祖母の家系は新潟県の出身です。武家の出だった(という話ですが・・)曾祖母も、後から利尻まで追いかけてきて、1900年(明治33年)に祖父が生まれました。基本的にばくち打ちで放浪癖のある曾祖父は、まともに仕事もしていなかったようですので、曾祖母は相当苦労したと思います。(関東大震災の時は東京に、戦前は樺太で水車小屋の番人をしていたという話を聞いています。)
というわけで、祖父も小さい頃から家の手伝いをし、ニシン漁の船頭として戦後まで働いていました。ニシン漁というのは資本家が(網元といいます)巨大な網を用意し、船を何艘も使い、何人もの人を雇って行う一大事業です。ニシンは、春に海岸で産卵しますが、その産卵しに来たニシンを網で囲んで捕る建網という漁法が一般的でした。当時の利尻沿岸には昆布等の海草も豊富で、大量のニシンがやってきました。産卵した卵に雄が精子をかけると海が真っ白になる現象を群来(くき)といいますが、当時は群来ると本当に海全部が真っ白になったそうです。ニシンが来たら建網の中にニシンを追い込み、船にあげて浜に運びます。浜では大勢の人が腐りやすいニシンを製品にするために昼夜を問わず働きました。製品としては数の子、身欠きニシン、ニシン粕(油かす)等になりますがこの当時はニシン粕にして主に関西方面に運ばれました。明治の日本の綿花、繊維産業を支えたのはこのニシン粕だったといわれています。明治の30年頃のニシン漁夫の給料は30円前後、教員の初任給が7円でしたので相当豊かだったようです。それも、雇用期間は2月20日〜6月30日までの約4ヶ月で後は遊んで暮らしているようなものだったそうです。
戦後農地改革と同様な、漁業改革が行われ封建的世襲的な網元制度の廃止に伴い、私の父と祖父は船を買いニシン漁を始めました。しかし、私の生まれた年(1955年)を境に北海道にニシンは来なくなり、大きな打撃を被った漁業者がたくさん出ました。
元々、ニシン漁はばくち的な要素があり、戦前の建網での大型漁法では今のお金で何億円もの投資を必要とし、ニシンがくれば大もうけでニシン御殿が建ちましたが、ニシンがこなければ大損で破産する網元もたくさん出ました。そうすると出稼ぎにきたヤン衆も、給料をもらわないで帰ることもあったと思われます。
私の事を話したかったのですが、ページが少なくなりました。
冬に床屋などに行くときは犬ぞりに乗って行きましたが、この犬は南極越冬隊が稚内で訓練した樺太犬の子孫で「タロ・ジロ」の親戚だった話など、おもしろい話がたくさんあるのですが、もし機会があれば次回に。
両親は9年前から冬は横浜、春から秋は利尻で過ごすという生活を送ってきましたが、今年で利尻の自宅を売りこちらで生活することになりました。利尻での我が家の歴史も113年で幕を閉じることになりました。ちょっと寂しい気持ちです。
もし、利尻へ行く事がありましたら、私の卒業した久連小学校が宿泊施設「自然の家」となっています。安く泊まれるので利用してみるのもよいと思います。
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