視覚障害とは

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視覚障害者が扱う文字の歴史とその評価

この文章は、私が1991年に関東地区視覚障害教育研究会で発表したものを編集して掲載したものです。

したがって、その内容は、現在とはやや異なりますが、視覚障害者とコンピュータを考えるためには、やはり多くの人達にその歴史的な経過を知っていただくのもよいかと思いますので、あえて掲載することにしました。

最終更新日:2001年 02月 10日

1.点字の出現

視覚障害者のための文字の工夫は古くから試みられていましたが、当初は墨字の形を指でなぞる方法、すなわち文字を木片に彫ってみたり、蝋板に刻印したり、糸やこよりを文字の形にするなどしたようです。

フランスのルイ・ブライユは、シャルル・バルビエが暗号通信で用いていました、12点点字を改良し、1825年に今の6点点字を作りあげましたが、日本においても初めは突字を用いていましたが、それは読むことだけでなく、書くことにも極めて困難なものであり、盲教育の効果を危うくさせる程であったといわれています。

ブライユ(英語ではブレイルと読む)の点字を初めて用いたのは、当時の東京盲唖学校の教官小西信八氏が初めてですが、今の50音の体系になったのは1890年11月の石川倉次氏の案が正式に採用されてからです。

点字がそれ以後の日本の視覚障害者の教育と福祉に果たした役割の大きさについては、言うまでもないことです。しかし、点字本を作るという点では大変な作業であり、盲特別支援学校においてもしばらくの間は、点字の教科書もない時代が続き、おそらく点字板で1点1点写し取っていたものと思われます。

点字の教科書が国の予算で作られるようになったのは、昭和30年代に入ってからで、いわゆる全点教運動をきっかけにしてからです。

昭和40年代に入ると、点字本に対する要求はさらに高まり、大学進学者の増加、点訳グループの出現、読書権保障の運動、点字図書館の相次ぐ開設、点字出版所の開設などにより、急速に点字本の量的・質的充実が図られて行きました。しかし、これらの点字本の多くは、ボランティアの作成によるもので、その場合には一部しか作られず、まだまだはがゆい思いをすることが多くありました。

昭和50年代に入ると、コンピュータによる点字作成の先駆けとなったブライユマスターがいよいよ登場して来ました。本校においても、1979年(昭和54年)にいち早くこれを導入し、大変大きな成果をあげたばかりでなく、将来へのコンピュータ利用の道をも開いたのです。

昭和60年代に入ると、パソコンの普及に伴い、これを使った点訳グループも現われ、また現在では点字図書館その他でパソコン点訳のネットワーク作りなども行われるようになりました。

2.墨字へのアプローチ

視覚障害者が普通の文字を読み書きしたいという願いは、いつの時代でも当然持っていたであろうことは、容易に想像できます。

タイプライターの歴史は、1714年にイギリスのヘンリー・ミルが考案したことに始まりますが、日本のカナタイプライターは、米国で作られたものを見本として、1899年9月に当時の東京盲唖学校長の小西信八氏によって初めて作られたと言われています。石川倉次はこれを改良して生徒に指導しましたが、ほとんど注目されませんでした。その後昭和30年代に入って、再び指導が始められ、この時に改めてその価値が認識されるようになったのです。

本校では、1971年(昭和46年)ごろから、正規に位置づけられた養護・訓練の中で本格的な指導が始められ、晴眼者とのコミュニケーション手段の少なかった視覚障害者に大きな喜びを与え、かつ録音タイピストという新職業を生み出したことを考え合わせるとその意義は大きなものがありました。

オプタコンが作られたのは、1966年のことで、視覚障害児を持つスタンフォード大学のJ・リンビル博士によって作られ、いち早く日本にも導入されました。「墨字が読める」というニュースは、視覚障害者を大いに歓喜させ、多くの視覚障害者がこのオプタコンに取り組みました。

本校でも、1979年(昭和54年)に、これに全校をあげて取り組み、1983年(昭和58年)には、文部省の研究指定を受け、活発な研究が行われました。しかし、この機器に飛びついたものの、アルファベットとは異なる日本の漢字を読むことや読書器として使う困難性などがはっきりし始めると、徐々に熱が冷めて行きました。

3.点字による墨字処理の時代へ

オプタコンで挫折感を覚え、カナタイプでは満足できない視覚障害者が、次に取り組んでいったのが、いわゆる点字の漢字でした。自身が視覚障害を持つ筑波大附属盲特別支援学校の長谷川氏は、普通の漢字かな混じりの文章を読み書きしたいという願いから六点漢字を生み出し、また視覚障害者に漢字を読ませたいという情熱が、当時大阪府立盲特別支援学校の川上氏によって漢点字を作り出させました。ほぼ同時期に、東京と大阪で同じようなものが作られたことは大変興味深いものがありますが、おそらく漢字を点字で読み書きしたいという時代の要求が、そこにはあったと思われます。

漢字を知りたい、普通の漢字かな混じりの文章を読み書きしたいと切望していた視覚障害者にとって、この点字による漢字の出現は、大きな関心を集め、徐々に視覚障害者の間に広がって行きました。それぞれの学習者が増えるにつれ、いわゆる六点・八点の論争が盛んになりましたが、本校でも1983年(昭和58年)より一部の教師が生徒に指導し始め、少しずつではありますが関心が高まって行きました。また、この年には本校に初めて六点漢字入力・漢点字入力による点字ワープロが相次いで導入され、徐々に使用者も増えて行きました。

AOK点字ワープロは、初めは六点漢字入力の方式を取っていましたが、「六点漢字を知らなくても使えるようにしなければならない」という要請から改良が進められ、今では六点漢字を全く知らない人でもある程度の漢字の知識さえあれば、普通の漢字かな混じり文が書けるようになって来たのです。これによって点字ワープロは視覚障害者に定着し、点字によるコンピュータ利用の可能性を広げて行くことになったのです。その意味ではAOK点字ワープロの果たした役割は、極めて大きなものがあると言えます。

4.ワープロからコンピュータとしての活用へ

多くの視覚障害者がこのAOK点字ワープロを使って行く中で、コンピュータを単にワープロとしてだけではなく、それ以外にも活用したいという要求が沸きあがって来ました。そして、視覚障害者自身がプログラムを組み、ソフトを作り出して来たのです。この中の「VDM」はBASIC用・MS―DOS用の音声サポートのソフトであり、多くの視覚障害者がこれを使ってプログラムを組み、各種の一般ソフトを操作するようになっていく中で、コンピュータは多くの視覚障害者に受け入れられて行ったのです。このことは視覚障害者のいわゆる感覚代行機器として活用できることを意味し、その結果、職場の中であるいは、生活の場で活用されて行くようになったのです。

労働省は視覚障害者の就労という点に着目し、言語工学研究所に補助金を出して、点字入力・六点漢字入力・音訓入力の機能を合わせ持った音声フロントエンドプロセッサ「やまびこ」を開発しました。このソフト会社は自動点訳ソフトや文章校正ソフトなどを相次いで開発し、さらにその応用範囲を広げて行ったのです。

一方、これらコンピュータ活用の広がりは、いろいろなハードウエアの開発にも影響を及ぼし、ソフトとともに普及し、視覚障害者あるいは、盲特別支援学校の中により深く根付いて行くことになるのです。

このような経緯の中で、私は、これら情報処理機器を教育現場に取り入れるべく、1989年(平成元年)4月に「情報処理研究部会」を発足させることにしたのです。

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